HABANA JAM SESSION レコーディング日誌 - その2 -
次第に、なんとなく私の気持ちが老ミュージシャンだけっていうのよりも、ダゴベルトがリストに挙げたようなミュージシャンも捨てがたいような気持ちに変わっていった。別に、トラディショナルな音楽にこだわることもないのでは…と思い始めていた。ダゴベルトの知り合いミュージシャンとホアキンの知り合いミュージシャンを合わせたらちょうどよいメンツがそろうのではないか。
そのようなことをダゴベルトに言ったら、私が頼む前に、早速ロランド、リベロン、ドン・パンチョに話を付けてしまった。三人とも、すんなりO.K.だった。レコーディングの日程も決まっていないのに、アポを取っていいのかとも思ったのだが、とにかく時間がないから早く話を進めないとということで彼もけっこうあせっていた。私の滞在日程からすると、これは一刻も早く行動しないといけないということを、彼はよく分かっていたようだ。
そこで再び曲決め。全10曲ということにして、大急ぎでリストアップしてみた。私はレクオーナのCDを持っていたので、その中から二曲程ってことで、ダミセーラ・エンカンタドーラとシエンプレ・エン・ミ・コラソンを。ダンソンを一曲。ペルフィディアは外せなく、あとは、シェレサーダ・チャ・チャ・チャ(フラン・エミリオの演奏したのが好きだったので。)キューバっぽく明るい曲をということで、カチータ(だが実はプエルトリコの曲)。あとは、ラテン・ジャズっぽい曲を2,3曲。
ダゴが、「ロランドが99年の『ホー・ジャズ(青年ジャズ・コンテスト)』で優勝した曲がとてもよかったから、それを弾いてもらおう。」と言うので、彼の言葉を信じてみた。
私の家にあるキューバ音楽のCDとじっくりにらめっこしながら、もっと慎重に選曲したいと非常に後悔したが、もう遅い。キューバにいるのにも関わらず、記憶力を頼りにキューバの曲を思いつく限り、リスト・アップした。
あとは、スタジオを決めなければならない。セントロ・アバナにあるエグレム・スタジオが空いているということが分かった。エグレムは、あのブエナ・ビスタが生まれた所だ。
しかし、私たちが使う方は一階にある小さい方で、ブエナ・ビスタは二階の大きいスタジオが使われた。3月16日から使えるというので、とりあえず4日間だけ予約を入れた。
再びホアキンに、タタ、ブラス、ルバルカバが参加できるかどうか聞いて欲しいとお願いしに行った。早速電話を掛けてくれ、一瞬にして彼ら三人ともO.K.だということが決まってしまった。なんでも、タタはいつも酔っ払っているので、すぐ忘れる可能性が高いらしい。あとでまた電話しないと。
エグレムに予約をしに行った日、偶然フリオ・パドロンがいた。彼に参加できるかどうか聞くと、「もっちろんだよ!!いつでも大丈夫!!」とのこと。メンツがどんどん決まっていく。
あとは、譜面を作ったり、練習したりしないといけない。今回初めて顔を合わせるミュージシャンたちもいるわけだから、とりあえず音合わせしないと不安だ。しかし、その前に譜面がないと話にならない。この時つくづく、私って異常に無計画で来てしまったということを反省した。
大急ぎでダゴベルトはラテン・ジャズ風の曲を一つ書き下ろした。タイトルはどうしようと少し悩んだが、何せ時間がないので、目の前に広がる朽ち果てた建物や行き交う人々の姿を眺めながら、「ここ、セントロ・アバナで作ったから『セントロ・アバナ』でいいや。」といとも単純なネーミングになった。
思えば私はかなり長い間セントロ・アバナで暮らしたなあ。今や「ルンバの地カヨ・ウエソ」なるさらにディープなところにいるし。この辺りは、その昔、自由になった奴隷たちが住んでいた、バラコンという集団で暮らす長屋などが存在していた地域でもある。つまり、生粋の下町っ子ばかりが住むバリオ(地域)ということ。キューバに長年暮らしている河野氏には「ますますファンキーな所に引越しましたね」と言われたし。まあいいや。
とりあえず、大急ぎでパート譜も作った。譜面起こしは私も手伝ってみたが、後でフリートに「この音変だよ。」と指摘され、確かめて見たらそれは私の写し間違いだったが。
シェレサーダとペルフィディアはロランドに頼んだのだが、ペルフィディアには一苦労。非常に有名な古い曲なのだが、私はどのようなメロディーだったのか、いくら考えても思い出せなかった。周りの人々に聞いてもなかなか出てこなかった。ドン・パンチョに電話で聞いたダゴベルトが「パンチョが歌ってくれたよ。」と言うものの、「どんなのだった?歌ってみて」と聞くと「忘れた。さっきまで覚えてたのになあ。」という始末。ホアキンに聞いても「今ちょっと出てこない。聞けば分かるのになあ」と言う。聞けば思い出すけれど、どうしても思い出せないメロディーってよくあるでしょ。「ペルフィディア」はそんな曲。
もう、こうなったらレコード屋さんに行ってみるしかないと思い、アバナ・ビエハにある「パラシオ・デ・ラ・アルテサニア」内のレコード屋に行った。探すと、N.G.ラ・バンダのアルバムに入っていたのを発見。そこで視聴できたので、やっと耳にすることができた。「そうそう、この曲!!」とやっと思い出せた。
記憶力を頼りにアレンジすることもできないこともないのだが、でも一応音源があった方がいいのは当たり前。倹約家のダゴは「たったその曲だけのためにCDを買うのはもったいない」と騒ぎ、「さっきのレコード屋にお願いして、ペルフィディアだけダビングしてくれないかなあ」と言い出した。普通だったら、そんなの失礼だし恥ずかしいし、第一、日本人である私にしてみたらそんなこと考えもつかない。でも、キューバ人に囲まれた生活をしていて、次第に私も彼らに順応してきていたせいもあり、「分かった。じゃあ、ちょっと行ってくるよ」と言い、私はカセットテープを片手にアバナ・ビエハまでひとっ走り。お店に着いて、店員の女の子に「この曲、ちょっとダビングさせてくれませんか?」とちょっと遠慮がちに尋ねたら、「もうすぐ仕事引けるから早く帰りたいのに」とブツブツ言いながらも、視聴用に置いてあったミニコンポに入れてくれた。それで「分かった!この曲、あなた歌いたいのね。」と勝手な解釈をしていたが、私は面倒なので「そうなの。」と答えた。同様にして、「シェレサーダ・チャチャチャ」もダビングしてもらった。店員の子に「この曲、歌は入ってないわよ。」と言われたが。
3月13日
一応、リハーサルの日。ミュージシャンには声をか|けたはずなのに、約束の2時を回っても誰一人として来ない。みんな忙しいのは分かっているのだが、いくらなんでもひどすぎる。一時間位過ぎてから、コンガのアデルが到着。コンガとティンバレス(ダゴ)じゃ、練習しようにも何もできない。それにしても、ピアノのロランドとは、どうしても連絡が付かない。せめて、ピアノとベースが来てくれたらちょっとは練習できるのに。
結局、2時間後くらい経ってからリベロン(ベース)が現れたが、すでにアデルは帰ってしまったし、ロランドのお父さんから電話がきて「ロランドのバンド(イサック・デルガード)のメンバーの親が亡くなってしまった」という理由で来れなくなったということ。
どうしよう、もう日にちはせまっているのに。
つづく
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